はじめに
当研究は多摩ニュータウンをはじめとした日本の都市郊外の大規模住宅地に関して、そこで安心して住まうための提案を探るにあたり、その比較研究をすべく海外のニュータウン開発の事例を取り上げようと試みたものである。
ここでは福祉や北欧建築・デザインでも知られるデンマークを取り上げた。
デンマークは日本と同様に戦後の高度成長を経験し、その過程においては首都近郊の新興住宅地開発も活発に行われ、その歴史的背景や経済成長の様子は日本と似ている部分もある。
しかし団地という産業住宅からやがて都心の超高層住宅へと展開していった日本の集合住宅環境に比べ、デンマークでは団地からコミュニティや暮らしを重視した1〜2階の低層長屋住宅へと展開していった。
その社会的な背景を含めた変化に注目し、今回の調査を行った。
ちなみに前提として、日本とデンマークとでは国の規模は全く異なるということを述べておく。
デンマークは非常に小さな国であり、面積約43,000km2は日本で言うと九州よりやや大きめ、2009年での総人口も約547.5万人と日本では福岡県の人口よりやや多いくらいである。そのため人口や都市機能は首都コペンハーゲンに一極集中しており、都市開発もコペンハーゲンを基点としている。
よってデンマーク全国の開発については、このコペンハーゲンを主とした視点で捉えても偏りはない。
またデンマークには地震はなく、建物に関しては日本ほどの耐震技術を必要としないということを述べておく。
デンマークの宅地開発とその背景
- △ 図1 コペンハーゲン フィンガープラン
デンマークの都市郊外の住宅地開発においては1960〜70年代にかけてが最も特徴的であると言える。特に1960年から1975年までの間に、デンマークの居住エリアはそれまでの倍に成長した。つまりその15 年間で1960年までの長い歴史の住居地域と同じ規模のものが作られたわけである。
1968年に首都圏域の人口は170万人だったものが1985年には210万人、2000年には240万人となっている。
そのため住宅地開発はコペンハーゲンのあるシェラン島から2つの海峡を越え、最終的にはユラン半島中部にまで広がっていく。
70年代には全部で約430,000戸の住居が建てられている。住宅生産のピークは1973年で、この年には55,566戸の住宅が作られている。
デンマークでは日本のように週末も仕事をするという習慣はないため、平日で換算すると1日約230戸の住居が国内に作られていたことになる。
これらの住宅開発においては、60年代までの建設では日本で言う団地に似た4〜5階建ての集合住宅が多く見られたが、その後徐々に大規模かつ高層化をしていく。
しかし70年代に入り低層の生活環境を重要視した大規模な住宅地開発が主流となり、それが現在に至っている。
これらの成長には、次のような背景がある。
デンマークの人口、特に首都コペンハーゲンの人口は、第二次世界大戦後に国の復興・成長とともに急激な成長を遂げていく。この時、住宅不足を避けるために急速な政策提言が行われ、住宅地開発は一大産業となっていく。
ちなみに中立の立場を取るデンマークは第二次世界大戦に参戦はしていないものの、戦時中は隣国ドイツの支配下に置かれ、政治や経済、国民の生活に至るまで大きな被害を受けている。
そのような戦後復興の中で1947年にコペンハーゲン郊外の開発計画が提案される。
それはコペンハーゲン中心部から5 本の指のように延びる環状線上に沿って住宅地が建設されるといったものであり、この都市計画は“フィンガープラン”として知られている(図1)
しかしただ新興住宅地の開発をしていくというわけではなく、コペンハーゲン周辺に天然もしくは人工で質の良い森林地帯を作るといった提案もされてきている。
例えば1936年のコペンハーゲン周辺の発展計画では緑地と主要道路、それに続く小道や公園といったものが提案され、計画が行われている。
これらはコペンハーゲンが城郭都市として中世より城壁に覆われた中で人々が暮らしていたため、レクリエーションのための緑地や自然を重要視してきたことや、デンマークは国土が平地で(最高地点はわずか173m)、緯度はサハリンあたりに位置しており、気候風土的にも森林が乏しかったことなどが影響しているのではないかと考えられる。
またより身近に自然を設置する、大切にするというその考えは、現在環境大国として知られる背景でもあるのかもしれない。
高層化する集合住宅と建築家の主張
- △ 図2 フレデンスボー テラサー集合住宅(1962-1963)(資料5より)
- △ 図3 ウォッツォンの住宅モデル案(1950)(資料4より)
- △ 写真4 アルバートスルンド南部の低層住宅(資料2より)
- △ 写真5 ホイ グラッドサクスの高層住宅(資料2より)
- △ 図6 コペンハーゲン中心部より19.5 分のファミリータウンと して紹介されるブロンビュ ストランド(資料1より)
- △ 図7 ブロンビュ ストランド高層階の間取り(資料1より)
1) 居間 2) 居室 3) ダイニング 4) キッチン 5) バス・トイレ 6) エントランス 11) テラス - △ 写真8 アベドゥーア スタションビュの様子(筆者撮影)
- △ 図9 ティンゴーデン集合住宅(上:配置図、下:立面図)(資料3より)
戦後国が成長していく過程において、国は住宅産業の活発化を望み、そのための様々な新しい居住形態が提案されていく。
その1つが1944年の設計競技で優勝し1951〜56年に建設されたベラホイの高層集合住宅である。
これは当時の新しい建設技術と形態の試みだった。デンマークのそれまでの歴史の中では最も高い8〜12階建てで、25棟に約1,300戸の住居が入っている。
続いて1953〜58年には約2,500戸のミレステデット高層集合住宅が建てられ、その後も次々とデンマーク各地に高層集合住宅が建設されていく。
しかしこの産業にとっては合理的な住宅の高層化に対し、何人かの建築家は住宅の質や住民の暮らしを損なうものとして異議を唱えていく。この意見は社会学からも提言されたが、高層集合住宅の開発はその後も続けられていった。
この時期に活躍していたデンマークの建築家で、シドニーのオペラハウスの設計で知られているヨーン・ウォッツォンがいる。
彼はそのオペラハウスの設計競技に勝利する1957年の前後にコペンハーゲンのあるシェラン島北部に彼の提唱する住宅モデル(図3)による平屋の集合住宅を2つ計画している(図2)。
このウォッツォンの集合住宅は当時の建築家たちに低層集合住宅への関心のきっかけを与え、1963年から1968年にかけてアルバートスルンド南部に大規模な低層の実験集合住宅が建設される(写真4)。
一方で同じ時期にホイ グラッドサクスに16階建ての高層集合住宅群が建設される(写真5)。
この2つの対照的なプロジェクトは当時の住宅地開発において高層か低層かの論争を巻き起こす。
最終的に世論は低層の集合住宅を支持するようになり、高層集合住宅の開発は1964年から計画され1974年に完成したブロンビュ ストランド開発(図6、7)が最後となった。
ここには16階建ての高層住宅が12区画あり、全部で約2,700戸の住居が入っている。
その後も約2,300戸のアベドゥーア スタションビュ(写真8:筆者はここに1 年間暮らしていた)や、イスホイ パーケン、クーエ ブグトフィンガーエンなど次々と大規模な低層の住宅地開発が進んでいく。
これらの開発は都心から離れた地域に新しく建設されたため、その計画においては町に必要な設備である、学校、保育園、図書館、店舗、レストラン、集会所などが住宅とともに作られた。
つまり日本で言う“ニュータウン”である。
筆者の個人的な感覚ではあるが、これらの規模は日本のニュータウンや大規模な集合団地とそれほど広さに変わりはない。
さらに1971年に実施されたティンゴーデン地域の低層住宅設計競技ではヴァンドクンステン設計集団の提案が勝利する(図9)。
伝統を踏まえながらも彼らの斬新なその提案は、現在に至るまでデンマークの集合住宅の設計に大きな影響を与えている。
国の成長とライフスタイルの変化
- △ 図10 1860 年と1984 年の人口の変化 全国分布(資料2より)
一方で社会的な背景としては、1960年以降にデンマークが好景気を迎えたことにより、裕福になった多くの家庭が家や車を新しく買うようになった。
そのため都市郊外に多くの新興住宅地が計画されていった。しかしそこに暮らすほとんどの住民は都心に仕事を持っていたため、国内には多くの高速道路や巨大な橋が作られるようになり、交通網が急激に発達していく。
70 年代にはコペンハーゲンのあるシェラン島からフュン島を通りユラン半島のオールボーまで約380kmの道が作られている。
ちなみに大ベルト海峡に現在の橋がかかるのは1998年であり、それまでこの海峡間はフェリーで行き来をしていた。
それでも交通網の発達とともに住宅地開発は徐々に国の西へと広がっていき、60年代まではほとんどの開発は大ベルト海峡の東側で行われていたが、1970年には逆転し、海峡の西側での建設が増えていった(図10)。
また戦後の高度成長期に働き手が不足するようになり、多くの既婚女性が家庭の外に仕事を持って働きに出るようになる。
子ども達は児童施設に預けられるようになり、働く女性の家事を助けるために様々な電化製品が開発され、各家庭に持ち込まれるようになり、新しいライフスタイルが提案されていく。
ちなみに60年代にはすでにデンマークのほとんどの成人女性が家の外に仕事を持っており、社会において性別による差別がなくなっていったのもこの頃のことである。
しかしそのような状況でも労働者不足は解決されず、市場は中東地域の国々から多くの労働者を雇うようになる。
デンマークの市場からみると非常に安い賃金で働く彼らは歓迎され、その数はどんどん増えていったが、一方で彼らの多くが自分の家族をデンマークへ呼び寄せたため、移民人口は爆発的に増えていった。
やがて郊外の街には多くの言語が飛び交うようになり、多くの新しい習慣や文化、宗教などがデンマークへと持ち込まれていった。
また1966年にデンマークでは付加価値税(日本で言う消費税)が導入されるのであるが、この時新築住居に関しては課税を免除されている。
ただし一方で大きさに関係なく新築住居あたり16,500krの税がかけられており(1973 年には廃止される。ちなみに70年の相場は1kr=約48円)、その点でも住宅建設は国の経済に大きく影響していたと思われる。
70 年代の改革と都市の再生
- △ 図11 ノアブロ地域の再生計画(資料1より)
1970年、デンマーク政府はそれまで教区を元にした行政区域であった1,200のコムーネ( 市) を277に統合する(2007年にさらに98に統合)。
これは現在に至るデンマークの医療や福祉、教育などの社会体制基盤を作った行政改革の一環なのだが、建築界においては、1975〜77 年に国のプラン(Landsplanlaegning)、広域行政区のプラン(Regionplanlaegning)、自治体のプラン(Kommuneplan)、地域のプラン(Lokalplan)と階層分けされた新しい都市計画法が施行される。
この都市計画法にはそれぞれの地域において建物の外観や街並みなどの様々な細かい規制が盛り込まれており、建設においてはそれに従わなければならない。
つまりこの都市計画法の中でその地域の階高が制限されれば、それに従わなければいけないわけである。
また1972年にデンマークはイギリスと共に欧州共同体(EC)に加わる。これにより商品をヨーロッパの他の国々へ販売することが容易になり国はますます裕福になっていくのだが、1973年にオイルショックが起き、商品の生産に問題を抱えることになる。
先に述べた住宅開発が減少に転じるのもこの年からであり、それによりデンマークの工場では、外国人労働者の受け入れを閉ざすようになる。
しかしそれでも多くの外国人労働者がデンマークに働き口を求めてやって来ており、その数は増えていった。
しかし1975年以降、デンマーク人の失業問題が深刻になるにつれデンマーク政府は激増する中東地域からの移住に規制をかけていく方針を展開していく。
これは現在も続く重要な政治問題として常に論議の的となっている。
それでもその後も低層集合住宅の開発は行われていくのであるが、郊外の開発によって郊外に人口が流動していくにつれ、都心部の超過密住宅地域の再開発が行われていくようになる。
デンマークではその歴史背景から都心部に寿司詰めのように4〜5階建てのマンション群が建ち並び、住環境の悪化や治安の悪化に繋がっていた。それらを減築や改築することで住みよい空間に再生していったのである。
最近は日本でもノアブロ地域の再生計画(図11)などをはじめデンマークの団地再生の事例がいくつか取り上げられているのを見かけるが、それらは都市郊外の団地ではなく、この都市郊外へ住民が移住したために少なくなった都心部の超過密住宅地を再開発したものが多いのではないだろうか。
日本の団地再生事情とはそれらの背景が異なってくると思われる。
まとめ
以上のように70年代以降のデンマークでの都市郊外の住宅地開発は、当初よりコミュニティを重視した低層での計画がされ、作られてきているものが多い。
日本同様に住民の高齢化の問題もあるが、70年代の国の改革以降、福祉体制を整えてきたデンマークではそれはあまり重要な都市の問題とはなってなく、むしろ70年代から問題化してきた移民による低所得者の住居としての利用が高く、治安の問題が重要視されている。
ただし戦後の高度成長期や世界的な背景による都市郊外の開発は日本のものと非常によく似ているものがある。そのなかで日本とは対照的に居住者の交流を重視したデンマークの低層集合住宅の計画は、興味深い事例であると言える。
デンマークの歴史や時代の流れを把握しつつ、都市開発においては住宅建設などのハード面だけではない、コミュニティを重視した計画などのソフト面と両方の部分を合わせて掘り下げていくことで、日本の都市郊外の団地再生にも参考になるようなヒントやアイデアが見つかるのではないだろうか。
今後はその点に注目をし、研究を続けていきたい。
主な参考文献
- 1) Arne Gaardmand(1993):DANSK BYPLANLAEGNING 1938-1992
- 2) Olaf Lind, Jonas Moeller(1994):FolkeBolig BoligFolk
- 3) Poul Baek Pedersen(2005):ARKITEKTURE OG OLAN I DEN DANSK VELFAERDSBY 1950-1990
- 4) Lisbet Baleslev Jorgensen(2004):Den sidste guldalder
- 5) Arkitektens Forlag(2007):dansk arkitektur siden 1754